国内 : 阿部浩己教授講演抄録(全国ワークショップ2007)
投稿者: egashira 投稿日時: 2007-5-25 9:53:01 (6006 ヒット)

2007年2月12日に大阪市立中央青年センターで開催された「人種主義とたたかい、外国人人権法と人種差別撤廃法の実現をめざす 全国ワークショップ・2007」の基調講演録

演者 神奈川大学法科大学院教授 阿部浩己さん

演題「国際人権法と日本の外国人法制度  9.11以降の世界と日本」


国際社会における人権の主流化

 私は国際法を専門にしておりますので、グローバルな状況がどのように動いているのか、そしてそれが日本とどのように関係しているのかということを常に考えます。私たちが住んでいる地球上には人権を保障するための豊かな国際的仕組みがありますが、これは時間的にみてまだ半世紀ほどの歴史しかありません。一九四五年に第二次世界大戦が終わってから、国を超えて人権を保障する仕組みをつくらなければ平和を守れないという考え方が強くなり、一九四八年にすべての国と人民とが達成すべき共通の基準として世界人権宣言が生み出されました。この世界人権宣言こそが国境を超えて人権を守っていこうという実質的な第一歩です。
その後、様々な国際人権条約がつくられました。人種差別撤廃条約は一九六五年につくられましたが、これは最も古い人権条約のひとつです。そして、国際人権規約や子どもの権利、女性差別、拷問などについても条約が次々とつくられてきました。つい数年前までは人権条約のなかでも特に大切な六つの条約を指して主要六条約といっていましたが、二00三年には移住労働者保護条約を含めて主要七条約といわれるようになり、二〇〇六年末には障害者権利条約と強制失踪条約もつくられましたので、これからは主要九条約といわれるようになっていくのでしょう。
 また一九九四年には国連人権高等弁務官事務所が設置されました。これは事務総長に次いで国連で二番目に高いポストで、それだけ人権に対する高い価値が与えられたということでもあります。そして昨年、国連の中に人権理事会という新しい組織が発足しました。それまでは人権委員会という名称で活動してきた機関がありましたが、それよりも位置づけを高めるものになっています。このように、法的にも制度的にも人権を守る仕組みがどんどん強化されています。
 人種差別の撤廃は国際法の中で最も重視されている規範です。人種差別はいかなる場合であっても逸脱を許されない強行規範とされています。国籍による差別も、主要条約のなかで禁止の対象となっております。
 現在、人権は国際社会で「主流化」されたといわれています。政策をつくり、遂行する上で人権を考慮することが不可欠の要素になったわけです。ジェンダーの主流化も進み、男性と女性の社会のなかでの役割について見直し、性による差別を禁止していくという流れも、あらゆる領域に浸透しています。
 またNGOの国際的地位も、この十数年で飛躍的に高まっています。以前、まだ若かった大学院生の頃、私もNGOの代表として外務省に申し入れをした経験があります。その時には部屋の中にも入れてくれない、あるいは入っても端のほうで立ち話程度だったのですが、いまはもうそんなことはなくなっています。ちゃんと向きあって座り、それなりに話し合いができるようにはなっています。
 このように語ると、人権の中身も豊かになり、人権を守るための仕組みも整備され、NGOの地位も高まり、すべて歓迎すべきことではないかと思われるかもしれません。私も、国際人権法を研究しながらこういう状況を見て、なんと時代は変わったことかと思います。
 しかしいったん研究室や会議室を離れ、改めて現実の世界を見渡すと、果たして私たちの住んでいる社会が本当に変わったのか、あるいは社会の人権状況は良くなっているのかという点で、大いなる疑問を感じることが少なくありません。

テロリズムという記号が動員されるとき

 特に近年、二一世紀に入ってからの人権状況に根本的な疑問を感じています。とりわけ、「テロリスト」あるいは「テロリズム」という言葉の台頭に、胡乱なものを感じずにはいられません。
 「テロリズム」はもともとフランス革命時の恐怖政治がその語源とされ、国家の側つまり強者の側がふるう暴力を指していたのですが、いつのまにかその関係が変わってしまい、弱い方が国家に対してふるう暴力だけが「テロリズム」と称されるようになりました。
 そして二一世紀に入ってこの言葉がまたたくまに世界を席巻し、私たちを思考停止にさせ、そして人権を守るための仕組みや法律の中身を大きく変えています。
 「テロリスト」は、その行為が問題にされるのではなく、存在じたいが排除・抹殺の対象になります。ですから、「テロリスト」として認定された人々は、人間としての尊厳や人権が否定され、人間の範疇から放り出されてしまうのです。実際、こういう事例がここ数年の間に世界で信じられないほどの広がりをもって起きています。問題なのは、果たしてこの現象は特定の国や政治指導者の考えによる一時的なものなのか、あるいはもっと深いところに根差すものなのか、ということです。
 私はこれまで人権の歴史を追究してきましたが、これはけっして一時的・突発的なものではないと考えています。お配りした資料の「国際法の暴力的本質の顕現」という項目の横に「文明人」「野蛮人」「未開人」という表現があります。これは何を意味しているかというと、国際法は伝統的に人間を三つに区分けしてきました。「文明人」とは欧米人を指しており、いわゆる「文明国」に住んでいる人たちのことを意味します。「野蛮人」とは半人前の扱いを受ける国に住んでいる人たちのことを意味します。例えば中国がそうですし、日本もそう呼ばれてきました。「未開人」というのは植民地支配を受ける人たち、つまり「文明」を持っていない人たちのことを意味していたのです。このように人間を三つに区分けし、世界を三分割して考える発想を国際法は持っていたのです。国際的に人権を保障する、つまり、すべての人間を同じ人間と捉え、あらゆる人が平等であるという規範は国際法の世界では二〇世紀中盤までは存在していませんでした。
 いま起きている「テロリスト」という記号によって引き起こされている現象は、こうした伝統的な、いってみれば一九世紀型の非常に差別的な人間の見方を再び表面化させるものではないかと考えています。改めて確認するまでもなく、「テロリスト」というのは誰もが同じようになれるのではなく、人種的、宗教的に特別な「色分け」をされた人たちが優先的にその範疇に入れ込まれるのですが、その分類は、以前の「文明人」「野蛮人」「未開人」という区分けの現代的引き写しといってよいのではないでしょうか。
 ただ一九世紀から二〇世紀初頭までの差別的な分類の仕方と「テロリスト」という、人間とは認めない存在をつくろうとする分類のしかたには少し違うところがあります。
 今日、「テロリスト」、「テロリズム」という言葉が語られるとき、そこには安全保障の考慮が非常に色濃く出てきます。特に日本を含めた先進国中心の秩序を脅かす存在が「テロリスト」であり、これは「劣っている」ということだけではなく、先進国の安全を脅かす「脅威」であり、先進国にとっての恐怖の対象であるということです。このように、「テロリスト」あるいは「テロリズム」という言葉を中心に国際秩序が大きな動揺をきたしているのですが、それは一時的なものではなく、歴史の中に埋め込まれてきた差別的な発想・思考が「テロリスト」という言葉を通じて再び顕在化しているのではないかと思うわけです。
 これは、国際法に照らしていうと、二〇世紀に入って創り上げた「平等」や「平和」という価値に対して真っ向から挑戦する考え方です。つまり人間は平等でなくてもいい、不平等であっていいという考え方、秩序は力によって支配されるものだという考え方なのです。
 先ほど述べた人権に対する考え方の深まりや、制度の整備など歓迎される動きがありつつも、その一方で「テロリスト」という言葉に象徴される差別的な考え方が強まるという、一見すると矛盾するような動きが進んでいるのです。

国家間の平等の崩落

 さきほどから人間が人間を区別する、差別する、排除するということについて語ってきましたが、これは国と国との関係においても広がっており、それにより国際秩序が揺さぶられている現状があります。
 私たちはいま二一世紀に暮らしています。二〇世紀は前の一九世紀の差別的な考え方を超えて人権や平等、平和という価値を豊かにしながら真に人間的なあり方を実現しようという動きが台頭した時代であり、二〇世紀の国際法はすべての国は平等であるという考え方を土台としてきました。すべての国には主権があり、国の大きさや、政治体制、経済体制にかかわらず、その国に住んでいる人たちが選択した体制であれば、主権は平等に認められなければならないという考え方です。
 一九世紀の考え方は、「野蛮人」「未開人」の住む国や制度は一人前のものではないので主権国家としては認められなかったのですが、二〇世紀はすべての人間は平等であり、その人々が選択した国はいかなる国であれ平等であり、たとえヨーロッパ的なものでなくても、歓迎すべきものであるかどうかは別にして、それは尊重されるべきであるという考え方でした。その意味では人間の平等と国家の平等は密接に関係するものであったのです。
 ところが冷戦が終わった ―東アジアを除いてというべきでしょうけれども― 一九九〇年代に入って世界は大きく変わっていくことになります。どう変わったかといいますと、アメリカ型の民主主義、少し広げても欧米型の民主主義が世界で最も望ましい政治体制であり、市場原理にもとづく経済体制を持つことが最も望ましいとされたのです。
 ですからアメリカ型、あるいは欧米型の民主主義と市場経済体制を採用してない国は民主主義・市場経済国家に生まれ変わらなければならないとされました。そういう国は「ならず者国家」「犯罪者国家」と呼ばれることが少なくありません。そして国連の仕組みを利用し、あるいは国連が利用できなければ有志連合、これは先進国で力を持った国が集まるのですが、そういう国が「ならず者国家」「犯罪者国家」に対して経済制裁を加える、場合によっては軍事力を行使することで「民主主義」「市場原理」を植え付けようという考え方が出てきたのです。
 「ならず者国家」「犯罪者国家」というのはどういう基準で選別されるのかというと、欧米型の民主主義を採用していない、市場経済体制を採用していないということがまずはその基準とされるのですが、その際、往々にして人権が持ち出されます。つまり人権を守っていない国だから介入して体制を変えてしまえという論理です。その国を変えるために、軍事力も含めた圧力を加えるのです。
 先ほど述べたようにいまや人権は世界で主流化され、人権は守らなければならないということじたいは誰しも否定できなくなりました。しかし人権の名の下に軍事力が行使され、多くの人々の生命を奪い、自由を奪い、人権が蹂躙される事態が生み出されています。こういう状況を見たときに、世界で人権活動に関わっている人たちは大いなる矛盾と苦悩に直面することになります。
 人権が国際秩序の改変のために、国家間の秩序をより不平等なものにしていくための論理として利用される場面が、この十数年で増えてきています。ですからいまは、単純に人権の語りを鵜呑みにするのではなくて、むしろ、人権を掲げた行動こそが人権侵害の元凶になる現実も注意深く見ながら思考を紡ぐ必要があるのです。そして、抽象的な人権を標榜して終わるのではなくて、誰がこうむっているどのような不正義を問題にしているのかということを具体的に捉える思考態度を涵養することが大切です。

人間間の平等の崩落

 国家間において平等が崩壊しているということは、人間のなかにあっても不平等が生まれるということです。ここでふたたび「テロリスト」と呼ばれる人たちの問題に戻りますが、二〇〇三年に、アメリカがアフガニスタンに続いてイラクに対して軍事力を行使しました。その際にイラクに侵攻して現地で闘っている人たちを捕えて、刑務所に収容し、捕虜として扱うのではなく、「テロリスト」として拷問をするなど非人間的な処遇をおこなっていたことが明らかとなり、いまではイラクのアブグレイブ刑務所でアメリカ軍によって酸鼻きわまる醜悪な行為がおこなわれていたことが世界中で知られるようになっています。
 アブグレイブ刑務所だけではなく、アフガニスタンやイラクなどからアメリカのお膝元であるキューバのグアンタナモ基地に移送し、そこで非人道的な拷問を加えていることも明らかになっています。
 アメリカだけではありません。他にも多くの国がこうした拷問禁止規範に真っ向から反する行為に関わっています。イギリスであり、ドイツであり、スウェーデンであり、これまで人権を先頭に立って守ってきたといわれている国々が拷問禁止規範を先頭に立って破ってきたということが明らかになっています。
 ヨーロッパにヨーロッパ審議会という国際組織がありますが、そこに昨年六月、ある報告書が出されました。そこでは、実に多くのヨーロッパの国々がアメリカの拷問に加担してきたことがつまびらかにされています。また、世界で最も人道的な国の一つとされるカナダにおいても、連邦最高裁判所、これは日本でいう最高裁判所にあたりますが、この司法の最高機関で二〇〇二年、例外的事情があれば、つまりカナダの安全保障が脅かされる危険があるのであれば、拷問をおこなっている国に送り返してもいいという判断が下されています。
 この司法判断に初めて接したとき、さすがに私も耳を疑いました。拷問を認めてまでも安全保障を守るとしていますが、いったい誰のための安全保障なのか。それはカナダを守る、あるいは先進国の秩序を守るということであって、それを脅かす者に対しては力を行使してもいい、外部に排除していく、そういう考え方になっているのです。そして外部に排除していくときに、その対象となる人たちは人間としての扱いを受けなくてもいいんだという判断であり、これはまさに先進国のなかで拷問禁止規範が緩んでいることを象徴するもののように思えました。
 もちろん拷問の容認は明らかに国際人権法違反です。国連や人権条約機関はこうした動きに対抗し、激しく非難しています。しかし、なぜこれほどまでに重大な人権侵害を行うのかということを突き詰めて考えていくと、行きつく先には、「テロリスト」たちは人間ではないという意識、極めて人種差別的な意識が基層に控えていると見なければなりません。人間のなかに人間でない人々がいるという思考こそが拷問容認の背景をなしているのです。
 難民の処遇もこの十数年の間に極めて劣化しました。難民の数を見るとこの十数年の間に減少しています。特に九〇年代の半ばから急激に減っています。
 なぜ減っているのか。世界が平和になり、難民になる必要がなくなったからというより、むしろ難民になることすらできない状況になっているという事情が大きく寄与しています。
 先ほど例に挙げたカナダの場合は世界各地のハブ(拠点)空港に入管職員を派遣して、難民申請者がカナダに飛来することを事前に阻止するようにしています。カナダだけではなく、日本だってそうしています。
 難民の人たちは、正規のパスポートを所持しておらず、ビザも取得できないなかで出身国を逃れ出ることが少なくありません。なんとかして国境を越えて自分たちの生命や自由を守ろうとしているんですが、それを飛行機に乗る前にチェックして出国すらさせないようにしているのです。
 国境管理は物理的にも厳しくなっており、アメリカが国境にフェンスを設けていることはよく知られていますが、東南アジアでも国境にフェンスが設けられるケースが出てきています。これはまさに恐怖に駆られた非理性的な行為だと思いますが、それが広がっているのです。
 国境を通過しても正規の在留資格がないために収容されるケースも増えてきています。そして収容実態が過酷であればあるほど、難民になる人たちに対して、あの国には行かない方がいいというメッセージを送ることになるのです。
 またいわゆる発展途上国といわれる国々に先進国の職員が行って、先進国に入ってくる前にスクリーニング(選別)をおこなうことも頻繁におこなわれています。つまり先進国にとって都合のいい人は入れるけれども、そうでない人たちはその前に排除してしまうということです。
 このように難民が難民になれない状況が広がっていますが、一方で難民を生み出す構造、力学はまったく変わっていないのでどうしても多くの人たちが密入国や人身売買など、非常に危険な手だてに訴えなければならなくなっています。密入国や人身売買を本当になくそうと思えば国境を開いていかなければなりませんが、国境管理を厳しくすればするほど、密入国や人身売買の回路は広がっていくのです。しかし日本をはじめ先進国では、国境管理をより一層厳しくしているのが実情です。

「美しい国」の醜い現実

 次に「美しい国」日本についてです。日本も、他の諸国と同じように、ベルリンの壁が崩壊した九〇年代に入って急速に変わり始めています。国家の平等、人間の平等が、人種あるいは宗教を理由として根本から揺さぶられる状況が生まれています。国家は平等ではなく、人間も平等ではないという考え方が広がり、自由民主主義、これは欧米型、アメリカ型の民主主義ですが、それとアメリカ型の市場経済を採用していない国に連なる人たちが、非人間的な対応を受ける状況になっています。
 なぜそうなるのかというと、本当にアメリカ型の民主主義に価値を見いだしていることもあるでしょうが、もう一つは、それとは違う秩序を持つ国や人々が、アメリカ型の民主主義に対する安全保障上の脅威であるという考え方です。これはまさに日本のいまの状況にもあてはまります。
 今日の資料の中に「二つの帝国」と書きました。一つめはもちろん圧倒的な力を、特に軍事面で持っているアメリカです。現にアメリカは帝国といっても言い過ぎではないほどの振る舞いをしています。そうしたなかに日本が組み込まれるようになりました。
 一九九七年の日米新ガイドライン以来、断続的に日本は国内法を改定し、あるいは新しい法律を制定して、その結果、日本はアメリカの軍事戦略の一部に完全に組み込まれるようになりました。二〇〇五年に発表された「日米同盟ー未来のための変革と再編」という文章を見ると自衛隊が完全に米国の軍隊のなかに組み込まれたことがわかります。そして神奈川県の座間にアメリカの第一軍団司令部が移転してくるということにもなっています。
 こういう振る舞いの意味をいろいろ分析する人がいますが、そのなかにモデル・マイノリティ(少数者)という言葉を使った分析があります。この言葉は少し揶揄的な意味も込めて「模範的なマイノリティ」ということを意味します。つまりマジョリティ(多数者)が評価するようなマイノリティということです。いま日本がとっている行動はまさにアメリカとの関係においてモデル・マイノリティであり、アメリカに評価されたい、ということが最も重要な誘因だということです。
 アメリカは自由民主主義を世界に広げていくことを掲げて、全世界に軍事力を展開していますが、一国だけでは無理です。ですから各地にアメリカと一緒に行動をする国が必要であり、日本はそのなかに組み込まれたのです。それは言い換えれば、いま進められている人種差別的な考え方や政策に同調しているということです。つまりアメリカ型の民主主義を採用していない国に対して軍事力を行使するという考え方に、日本も同調し、加担していくということに他なりません。
 もう一つの帝国とは大日本帝国です。天皇制をそのまま継承し、大日本帝国時の論理を蘇生させようという動きです。これがいま排他的なナショナリズムを生み出しているということは、ここで確認するまでもないことでしょう。
 このようにアメリカという帝国、大日本帝国という二つの帝国が日本のなかで浮上しているのですが、これは最終的には対立してしまうだろうと考えますが、少なくとも現時点では日本は平和主義を放棄し、この二つの帝国の原理をなんとかバランスをとりながら進めていくという政治体制に移行しつつあるといえます。そしてそれは先程から述べているようにアメリカによって主導される人種差別的な政策に連なっているのです。
 さらに軍事と並ぶ重要なポイントである経済ですが、新自由主義的な市場経済、いわゆる規制緩和や民営化を進め、そこでの競争原理をテコとして経済を活性化させていくそういう方向に日本は急速に移行しています。つまり社会連帯にもとづくあり方ではなくて、個人間の競争原理にもとづく社会のあり方であり、そしてセイフティーネットは縮小させながら非常に過酷な社会へと移行しています。
 これは出入国管理のあり方に如実に表れています。特に二〇〇五年の第三次出入国管理基本計画、あるいはそれ以降の入管法の改定を見てみますとはっきりとわかります。
 このなかの柱のひとつは高度な人材を積極的に受け入れるということであり、これには国内の労働力不足を補っていくという経済効率優先の考え方が非常にはっきりと出ています。
 しかし同時にもう一つ、「脅威」への厳格な対応、「脅威」への水際での対応の強化を打ち出しています。そのためにプライバシーなどは関係なしに指紋情報などバイオメトリックスを利用して徹底して人間を管理するシステムを導入しています。これも人種差別的なグローバルな流れと連動しているといえます。
 日本がいま進んでいる方向は、ともかく市場原理と競争原理にもとづく経済効率優先の新自由主義的な政策を強め、それを脅やかすものは徹底して排除するという考え方であり、これがこれまでの社会の仕組みそのものを大きく変えているのです。
 そして私は思うのですが、これまで「外国人」と「国民」という区分けがありましが、いま進んでいるのは「外国人」、「国民」という区分けというよりは、極端にいうと「良き人」か「悪しき人」かという区分けになっているのではないかと思っています。つまり日本人のなかでも、脅威の対象として選別される人たちが出る一方で、まるで世の中が天国であるかのように振る舞える人たちが存在する。他方外国人のなかでも日本にとって都合のいい人であればさまざまな点で便宜が図られますが、一方でそうではない人たち、ルールから逸脱していると思われる人たちは非常に過酷な処遇におかれてしまいます。
 このように「外国人」、「国民」という区分けを越えて新たな区分が導入され、これまでつながりあっていた人たちのなかに分断を持ち込み、そうしたつながりを断ち切ろうとするような原理が働きはじめているように思うのです。「良き国民」、「良き外国人」として認められない人たちは不審者であり「テロリスト」という言葉で表現されるような存在に類型化され、徹底した排除、封じ込めがおこなわれるのです。
 こうした考え方は刑事法分野にも影響を与えています。これまで刑法というのは法的に禁止されている逸脱行為をおこなったから処罰されるというものでしたが、いまでは人間存在そのものを裁く方向へと変化しつつあります。こうした「敵味方刑法」の考え方が共謀罪の導入によって広められようとしています。先ほど「テロリスト」とはその行為ではなくその存在が裁かれるといいましたが、まさに日本の刑法にもそういう考え方が導入されるということなのです。対テロ戦争が法律の改定を通じて具体化されているということなのです。
 こうした状況が、温度差や関心の度合いに違いこそあれ、世界を席巻し、広がりつつあるといってもいいかと思います。

抵抗と連帯と創造と

 世界は大きな流れにそって動かされているといえますが、これに抗う流れも、日本のみならず、世界各地で少なからず起こっています。
 その一つとして世界社会フォーラムを紹介したいと思います。これは二〇〇一年からおこなわれているもので、いま世界各地で起こっているさまざまな問題を根源的にとらえ直していこうという目的で開催されています。労働規制の撤廃を促す経済協定、テロの脅威に対抗する国際刑事協定、あるいは米国を中心とする軍事協力、これらが実は世界を不幸にしている、人間と人間の絆を断ち切っているという認識にたって、それとは違うもう一つの世界が必要であるという根源的な問題意識を共有する場となっているのです。
 このフォーラムには世界各地から何万人もの人たちが参加して、いまの世界のあり方に対する抵抗を示していく拠点をつくっているのです。こういう動きと連動していくことが非常に重要ではないかと思います。
 二点目にはいまの世界の状況として、これは日本もそうですが、もう一度過去のあり方をとらえ直そうという動きが出てきていることに着目すべきです。特に人種差別の遠因である植民地主義が本当の意味で撲滅されなければならないという問題意識が広がり、植民地主義、植民地支配に対する責任を問う声が二〇〇一年、アフリカのダーバンで開かれた「反人種差別国際会議」から広がってきています。
 日本では戦後補償を求める闘いがこうした動きといえますし、民族教育の保障を求める闘いも過去の不正義を克服する動きとしてあげられるのだろうと思います。
 つまり植民地主義を背景とする過去の不正義を克服していくことなくして人種差別を根底からなくし、真の正義を実現することはできないんだという動きが広がっているのです。
 このように、世界が大きく変容させられていくなかにあって、これに真正面から向き合い、抵抗していく動きも同時に広がりつつある。それとどう連帯していけるのかを考えていく必要があるでしょう。
 現在のグローバルな状況をみますと、平等や平和という普遍的な価値を所与のものとして奉るだけでは足らず、むしろ、そうした価値に改めて自覚的にコミットする闘いが必要になっています。平等から不平等へ、平和から力の行使へ、というアメリカを中心とする先進国の政策が世界を大きく変えようとしているなかで、それに対してははっきりとNOをつきつけなければなりませんし、自覚的に平等や平和を選び取る、そういう行動に出る姿勢が大切な時を迎えていると思うのです。まさに、私たちは価値的選択あるいは価値的闘いのただなかにあるのです。
 こうした闘いを有利に展開するにあたって国際人権法は強い味方になると思います。先ほど人権の名の下に介入がおこなわれるようになっているといいましたが、これはまさに人権が主流化し、誰もが人権を否定できなくなったことの結果でもあり、考えようによっては国際人権法の成果なのだ、ともいえるかもしれません。しかし人権の名において他国に強引に介入し、そして大規模に人権を蹂躙するようなことは、国際人権法の本来の要請からはほど遠いものです。むしろ、国際人権法は、介入したくてたまらない先進国の為政者たちによって乗っ取られている、というべきです。これをもう一度私たち市民・民衆の手に取り戻すこと。そして、抽象的な人権ではなく、具体的な人間の具体的な不正義を公的アリーナに導き入れる作業を通じて、乗っ取られた人権の仮面を剥ぎ、平等と平和の価値を前景化していくことが重要だと思います。
 今日の集会のようなものを通じて日本国内でも横のつながりが広がっていくと思いますが、先ほど世界社会フォーラムを紹介しましたように、実は世界各国でも同じような運動が展開されています。例えばカナダにはNO ONE IS ILLEGAL(ノーワンイズイリーガル:誰も不法な人はいない)という運動があります。そして、在留資格のない人に在留資格を与えることを求めたり、退去強制に反対したり、あるいは人種差別に反対したりという運動を展開しています。私たちが日本において直面している課題と、まったく瓜二つの課題に向き合っているのです。
 こうした運動と連携、連帯していくことが非常に重要だと思います。すでに先進国の政策決定者たちは互いに協力することによって世界を変容させようとしているのです。それに対抗しようとするのであれば、私たち市民の側も国境を超えて横の連携、連帯を強めていかなければなりません。

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